皆さんご存知のタレントで俳優の高島忠夫さん。
1998年にうつになってしまい芸能生活を一時休業しており、いわゆる”テレビから消えた人”になってしまいましたが、私はこの人の生き様にとても感動と共感を覚えました。
闘病の様子を綴った本を出されていますが、この本にはどん底を乗り切るための様々なヒントが詰まっています。
「とても聡明で哲学的な人だなぁ」と素直に思いました。
そんな高島さんの人生と闘病生活の教訓から得られる、うつ克服のヒントを”生きる技”としてこの記事で紹介していきます。
目次
はじめに ~高島忠夫さんってどんな人?~
高島忠夫さんというタレントを知らない人のために、簡単に高島さんのことを説明します。
名前も聞いた事ない人には、ざっくりいうと高島忠夫さんは、今も俳優で活躍されている高嶋政宏さんと高嶋政伸さんのお父様です。
私と同年代のアラフォーの人たちには、高島さんはタレント・司会者というイメージがありますね。
私が子供の頃『ゴールデン洋画劇場』や『ごちそうさま』の司会者、そしてバブル時代を代表するクイズ番組『クイズ歳の差なんて』の回答者というイメージがあります。
「イエーイ!」というギャグ?ボケ?をお持ちで、クイズの時もユーモアたっぷりの超明るいキャラクターでした。
(とても”うつ”とは程遠いイメージです)
しかし、実は高島さんはもともと生粋の俳優畑の出身者で、大学在学中に新東宝の第1期ニューフェースとなり、銀幕の二枚目スターとして数々の映画、ミュージカルに出演していたのです。
うつ病発症の少し前には、朝の連続ドラマ『ふたりっ子』では主人公の祖父役を演じていました。
そんな誰もが憧れる一流芸能人の人生には何があったのでしょうか?
高島忠夫さんがうつになった背景
①がんになることに対する過剰な恐怖心
やはり芸能人は体が資本ですよね。特に高島さんのように忙しい芸能生活を送っている人にとっては、体が健康でないと仕事はこなせません。
若い頃から比較的病気知らずの高島さんにとっても、やはりがんになることに対しては過剰に恐怖を覚えたようです。
松田優作さんなど、同年代の俳優さんががんで亡くなられているのを目の当たりにしてきたというのもあると思います。
また、破天荒な性格の高島さんの父親の影響もあったそうです。
ぼくが四十代後半のころだったと思うが、食欲が無くなり急に体重が落ちた時があった。
すると親父が僕の不安をあおるように言いはなった。
「おまえはがんの第三期だな」親父はどこか破天荒なところもあって、根拠もないのに断定的な物言いをする人間だった。
途端に妻の寿美花代は泣き始めるし、小さかった政宏と政伸は「パパ死んじゃイヤだ!」としがみつく修羅場になった。
引用:『「うつ」への復讐』 高島忠夫
このようなエピソードなどもあり、いろいろなことが重なってがんに対しては神経質になられていたようです。
結局検査で異常が出たことな無いのですが、それが”自分なりの健康法”を妄信するきっかけでもありました。
②睡眠へのこだわりから薬、アルコールへ。そして暴飲暴食。
俳優、タレント業をしていると健康管理をしつつ不規則な仕事のスケジュールをこなさなければいけません。
深夜のロケや早朝の収録などもあると聞きます。高島さんのような売れっ子タレントさんも相当な不規則生活を送っていたようです。
そんな中で高島さんがこだわっていた健康法が運動と睡眠。特に睡眠を大事にすることが奥様の寿美花代さんが「この人と結婚しよう」と思った決め手だそうです。
しかし、高島さんのハードなスケジュールをこなすには相当な睡眠コントロールが必要です。
特に年を取ると自分が寝たいタイミングで寝れなくなりますよね。そこで高島さんが頼ったのがアルコールと睡眠薬。
最初はアルコールだけでコントロールできていたのが、次第に聞かなくなり睡眠剤と併用するようになったようです。
もちろんこの行為は危険であり医者から止められていたようです。
実は私自身も仕事の休職直前に心の治療をしているときに、この禁じ手をよく使ていました。
睡眠薬とアルコールでは良くない危険な組み合わせなんですよね。
さらに状態が悪くなって、体にも負担をかけると知りながら、早く寝て楽になるためにこの禁じ手を使ってしまっていた時期がありました(真似しないでくださいね)。
高島さんもやってはいけないと思いつつも、仕事のパフォーマンスにつなげるためにやってしまっていたことでしょう。
気持ちすごくわかります。そして高島さんは酒飲みに加えて、暴飲暴食だったそうです。
特に肉が好きで食べ過ぎて腹痛で救急車で運ばれたこともあったそうです。そしてその後糖尿病と診断されたようで、そこで医師から禁酒命令が出たようです。
ストレスを暴飲暴食で発散する気持ちが私も痛いほどわかります。私も仕事のストレスでラーメンを3杯食べた後にピザ1枚食べきっていましたから。
あっ、ちなみにラーメンは全のせのチャーハン付きですよ。話を高島さんに戻します。まあでも人間そう簡単に、ストレス解消行為を辞めれるものではありません。
高島さんも糖尿で禁酒命令が出ても、不眠が続いたため、家族に隠れて飲んでいたようです。アルコール依存の状態ですね。これが発展していって長きにわたり体を蝕んだのでしょう。
③レギュラー番組終了という環境変化と家族の喪失体験
高島さんは奥様とコンビで司会をやっていた番組があります。日本テレビ系「ごちそうさま」という番組で、ご家族全員で出演されたこともあったそうです。
この司会を26年間続けてきたとのこと。1997年の年、司会のバトンタッチということで高島夫妻はこの仕事を降りることになります。
何でも高島さんが一番お気に入りの番組だったそうで、相当な愛着があったとのこと。
何しろ26年も司会を務めてきた番組なので、その仕事がなくなるということは、相当な寂しさだったでしょう。加えてこれは人生の節目ともいえる環境の変化にあたります。
またちょうど同じころ高島さんのお母様が体調を崩され、入院したとのこと。自分をかわいがってくれた母親の病気と入院は大きな喪失体験になったようです。
当時の高島さん本人には自覚がなかったようですが、この「環境の変化」と「喪失体験」は、高島さんにとって大きなストレスになったようです。
その翌年の夏、高島さんは真夏の悪寒、思考の停止、何もやる気が起きない、などあのうつの独特の症状に襲われて、仕事を休む決断をしました。
高島さんが苦渋の決断をしたときの、仕事関係者との電話のやり取りです。
ぼくは「選択肢は、ひとつしかない。レギュラー番組からの降板、そして仕事をすべてキャンセルするしかない」と告げ、こう付け加えた。
「ぼくは・・・・・・もう、使い物にならない」
引用:『「うつ」への復讐』 高島忠夫
このときはまだ医師の診断は、なされておらず自分がうつだということを知らなかったそうです。そこから高島さんは長い長い闘病生活に入ります。
高島忠夫さんがどん底から自分を取り戻したきっかけは?
ある末期がん患者の生き様を目の当たりに
高島さんが再発をして再休養生活を送って途方に暮れている時、それは突然のきっかけでした。
人生が前に進みだすきっかけは、突然現れるものです。
著書では「ある感動」と題されていました。
高島さんが一人でテレビを見ている時です。
番組はスポーツ・ドキュメンタリーで、主人公はアイスホッケー・リーグ『日光アイスバックス』のゼネラルマネージャー。
その時は名前を覚えていたのだが、いつの間にか忘れてしまった。
しかし、内容は覚えている。チームの親会社にクラブを維持する資金がなくなり、チーム解散を決定。
選手や関係者は、市民クラブとして生まれ変わる道をさぐった。
しかし、リーグ戦で低迷を続ける弱小チームにスポンサーはつかず、解散の危機を迎えた。元所属選手だった彼はチームの存続の悲願を実現するためゼネラルマネージャーに就任したという。
スポーツ界に限らず、こうした感動エピソードはよく耳にする。
だが彼の場合は、ここからがドラマだった。ナレーション。
「昨シーズン中に彼は医師から、がんのため余命一年と宣告された。抗がん剤を飲み、副作用と戦いながらスポンサーをさがし、選手を確保し、チーム再建のために奔走している」
~中略~
最後に、彼はインタビューに答えて言った。
ぼくのがんは、かなり手ごわい相手です。
選ぶ道はふたつある。闘病生活に入るか、ふつうの生活を送りながら死を待つか。
ぼくには愛するチームのためにやりたいことがたくさんあります。
余命一年だが、命つきるまで通常生活をしながら活動する道を選んだ。
この選択に後悔はありません」「・・・・・・」息がつまった。番組が終わっても、しばらくは動けなかった。
引用:『「うつ」への復讐』 高島忠夫
この死を間近にしてもなお人生をチームのためにささげるゼネラルマネージャーの生き様に、高島さんは今までの自らの生き様をか重ねたのでしょう。
あわただしく、ただ流れるままに生きてきたという高島さんは、
自分の人生を歩めてきたのか?
生きるとは何なのか?
そのことについて本気で考えて、「自分自身を生きる」ことに再び焦点を当てたそうです。
そしてその思いをモットーに芸能界への再起を誓うのでした。
(その後、高島さんは再びテレビに出演されて、闘病生活を記した著書まで書き上げてしまいました。)
自分は人生に何を問われているか?を考える高島さんはテレビの中の”死と向き合って使命に生きる人”を見て一気に心が刺激されて、やる気がみなぎってうつから復帰されました。
そして高島さんの復帰や著書の出版は、多くのうつ病患者やその家族を勇気づけました。
人が本気でモチベーションを高めるとき、それは人生の目的を見つけたとき、人生からの問いかけに答えるときです。
そしてそれは幸せへと向かう兆候なのです。
「自分中心」、「自己実現中心」の生き方から、「人生からの呼びかけに答える生き方」「意味と使命中心の生き方」へと、生き方を百八十度転換せよ。
そうしなければ、真に穏やかな幸福は決して手に入ることはないのです。
引用:『ビクトール・フランクル 絶望の果てに光がある』 諸富祥彦
また死と直面した時、働き方や生き方に対する思いが一気にパラダイムシフトされることはよくあります。
自分が死に直面した瞬間、また死後に魂と呼ばれる存在になったときに、それでもあれは自分にとってやるべき仕事であって、誇らしい仕事であった。
そう思える活動に人生を費やせるのであれば、僕たちの仕事は永遠になるのかもしれません。引用:『やる気が出る心理学』 中越裕史
おそらく高島さんは「他人ではない自分の人生を生きる」という言葉で自分を奮い立たせていたのですが、その自分の人生とは”自分なりの他者貢献”、”自分らしい本来の他者貢献”が自然とできていたのだと思います。
人間自分だけのために大きな仕事はこなせないものです。そこにうつ病が知らせてくれる大きな意味があるのだと思います。
本の最終章をまた一部抜粋します。
最後に病気になった意味についてこう語っています。
テレビで語ったぼくの体験の一端が、いくらかでも人の役に立っているのかと思うと、五年間の闘病生活は無駄ばかりではなかったのかもしれない。
「この五年間の空白を、六十代の青春を返せ!と叫びたい」
そう前書きに記したのだが、あれは半分ほど撤回しなければならないと思い返した。
この五年間はけっして無意味ではなかったのだろう。
ぼくの体験談に勇気づけられたという人がいる。
きっと、他人ではない自分を生きようとした結果ではないか。そう考え至るまでに時間はかかったが、それは、休養の時間でもあったのだ。
引用:『「うつ」への復讐』 高島忠夫
どんなときにも意味を見いだせる高島さんの生き方に感動です。
同年代の俳優さんが徐々にお亡くなりになる中、大きな挫折を経験しながらも、もうすぐ87歳になるご高齢でご健在、高島ファミリーと言われるくらい家族関係も良好。
そんな高島さんの存在に私は勇気をもらいます。
おわりに
うつは年を取ると克服するのが難しいといわれています。
でもだからと言ってそこで人生終わりだなんて言いきれません。
特に自分の人生からの問いかけに気づいて、その問いかけに答え続ける生き方を始めた時は、年齢とは関係なく人生は前に進む勇気が湧いてくるのです。
そのことを高島忠夫さんが証明してくれました。
あれだけ悲惨で長い長い地獄のような闘病生活を見事に克服して、こんなに素晴らしい著書を世に送り出してくれた高島さんに、感謝と敬意を送ります。