末期がん寄り添い記録 ~母が膵臓癌で亡くなりました~

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先日母が亡くなりました。70歳を目前に膵臓癌と診断されて、診断後わずか3ヶ月余りでなくなりました。
長いようであっという間だった3カ月余り。

いろんな葛藤や悲しい思い、親が癌になって気づいたこと、母は自分の身をもって私に教えてくれました。

そして発症から亡くなる日のことまで簡単に経緯をまとめました。

ちょっと生々しい部分もありますので、精神状態があまり良くない方、心臓が弱い方は読まないでください。

命と本気で向き合いたい方、人間の命の儚さに触れておきたい方はぜひ読んでください。

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目次

膵臓癌寄り添い記録 ~ありがとう、お母さん~

便秘と食欲の無さ

2020年の年末あたりから調子が悪くなった母、最初は、

ただの便秘と食欲不振だと思い、便秘対策をひたすら行いました。

食物繊維を食べたり、呼吸法をやったりあまり刺激の強くない便秘薬を試したりして、いくつか便秘対策を行ったのでしたが、状況は一向に改善しません。

便が出たりでなかったり、その度に一喜一憂して過ごしていましたが、その後ようやくその原因が分かりました。

2021年3月、糖尿病と高血圧でお世話になっていた、かかりつけ医で腸が映るようなレントゲンを行い、

その結果医師から「腸全体に便が詰まっている」という診断。

ただ念のため総合病院の精密検査を受けるように勧められて、1ヵ月後に総合病院の検査を実施。

その2週間後、ちょうど5月の連休明けに正式な病名が分かりました。

「癌だった」と母から連絡

病名を聞くために、診察の予約を入れたのですが当日少し不可解なことがありました。

予約の時間に訪れると、担当の医師から、

「少し時間がかかるので2時間後に来てください」とのこと。

それを聞いた母は、直感的に「何か悪い病気にかかった」「ひょっとして癌なのかな」と嫌な予感がし、激しい恐怖心に襲われたとのこと。

そして父と母2人で診察に入る。

診断名「膵臓癌ステージ4」

そして「余命半年から1年」。

今は本人に直接、そしていきなり告げてしまうみたいですね…。

母は診察後、私たち子供に告げるためにLINEをくれました。
母からあったLINEの言葉は、

「時間のいい時に電話して」と、

そのLINEに気づいた私は、「これはただ事ではないな」と分かりすぐに母に電話。

母「膵臓だった」

私「どういうこと?膵臓がどうしたの?」

母「いちばん悪いやつ」

私「癌?膵臓癌ってこと?」

母「そう、癌だった…」

初めてそのことを聞いたとき、私は言葉を失いました。

癌になるまで両親を少し避けていた私

数年前に私がうつ病になった時、
母に当たり散らしてひどいことをたくさん言ったものです。

両親とは別々に暮らしているのですが、たまにふらっと顔を見せたときに、

「両親と一緒にいることが非常に居心地が悪い」と感じるようになりました。

気づいたら用事がある時以外は、両親を避けるようになっていました。

私自身が、食事に対して神経質なものですから、

(うつ病になって特に食生活についての知識を身に付けてしまいましたので…よくも悪くも)、

どうしても両親の食生活の乱れが目について仕方ありません。

味が付いている鯖の塩焼きに醤油をたくさんかけたり、母はもともと糖尿病があるのに寝る前におにぎりを食べたり。

仕事柄、病気の方と接する機会の多い私としては、見ていてどうしても腹が立ってしまいます。

声に出して止めても言うことを聞かない。

私が砂糖の摂りすぎや、マーガリンのトランス脂肪酸は非常に体に悪いことを伝えたりすると、

「あんたの言うことを聞いていたら何も食べれないわ」と言われる始末。

そういうことがあるものですから、…いつしか数年前からなるべく両親には会わないように、物理的に距離を取るようにしていました。

そうしたら膵臓癌末期。

この記事を書き始めた時点で、時点でまだ母は生きています。父も病気持ちですからろくに世話もできません。

通院治療の限界、在宅医療のサービスを使い始める

診断されてから1ヵ月程度、自宅での生活に特に支障はなかったですが、6月中旬になってから布団で寝ていることが多く、活動量も減ってくる。

聞くとリビングでテレビを見ることも辛く、体が疲れるとのこと。

父と母に代わって、私(次男)たち夫婦が診断を受けた病院のケースワーカーを訪れて、通院治療から在宅での往診及び訪問看護、介護保険の利用に切り替えたい旨を伝える。

そして、
6月下旬、介護保険の契約とベッドの搬入。
腰が重い父に代わってこういう時は私が中心になって動く。

私に対して厳しい言葉をたくさんかけてきた父も、何もできずに指をくわえて見てる。

でも私はうつ病になり、たくさん読書をして不幸になりにくい心の持ち方を学びました。

宗教の信仰をしている父はこんな時にも母に対して厳しい言葉を浴びせます。

生まれた家の宗教を何も考えずにそのまま信仰すると、宗教が何のために存在するのか?信仰とは何なのか?

そういうことを考える機会が圧倒的に少ないと思います。

もしくは父も認知症だから、病気の人の心を推しはかる能力は無いのかもしれません。

ただ私は自らうつ病になって、たくさん本を読んで1つだけ良かったことがあります。

親に対して無条件で奉仕すること、これは人生で最高の得を積むことだと今肌で感じています。

(※この時期は少し父と喧嘩になることがあり大変でした、愚痴っぽくて見苦しい文章で失礼)

吐き気、痛みが増える

7月3日土曜日
会いに行く。ベッドで寝ていた。兄の家族全員来ていた。
リビングでみんなでテレビを見る。私の息子と兄の家族は久しぶりに会う。

7月5日、月曜日。
夕方に会いに行く。看護師さんが来ていて、調子が悪いとのこと。点滴の説明を受ける。

母、昨日に続き、今朝もお茶で吐いたとのこと。

お茶が飲みにくいので水やさっぱり系の炭酸飲料を勧める。

水を買ってきてペットボトルのキャップを、ストロー付きのタイプに変えて飲んでもらうと飲みやすいとのこと。

何とか吐かずに薬も自分で飲めた。

点滴は水分補給と栄養のため5日間指示が出ている。

スーパーで母の栄養になるジュースや、豆乳飲料、炭酸水など買ってみる。

プリンが食べたいが賞味期限が気になるとのこと。

一応プリンを買っておいた。食べなかったら後で捨てればいい。

父が家事をできないので家が気になるとのこと。

床屋に行きたいとの事。

など不安をしっかり聞き出す。

しっかり聞こうとすれば、話してくれるものだった。

元気がないと「もしかして最後が近いのか」と不安になる私。

だんだん食べれなくなってきている。

7月中旬、嘔吐する頻度が増えてきて、薬を飲むのも難しくなってきた。

それまで飲んでいた胃薬や血圧を下げる薬はもう切ってもらって、鎮静剤も飲み薬から貼り薬と、舌下投与の薬にしてもらう。

舌下投与とは、飲み込まずに舌の下で溶かしていき血管神経に働きかける薬。ちょうど狭心症の人が服用するニトログリセリンのようなもの。

飲み物は水と、炭酸飲料(母の場合はジンジャーエールとファンタグレープしか受け付けず)のみに。

それまで好きで時々食べていたスイカや、卵サンドの卵の部分も徐々に食べれなくなる。

立てなくなる、更に痛みも強くなる。我慢する母

8月上旬から血尿?のような茶色い尿が出るようになり、また自力での立ち上がりは困難。トイレも立ち上がりと移動の介助が必要に。

父と母だけでは、そのことをケアマネージャーや看護師に伝えることができず、ちょうど医療の仕事をしていた私次男がケアマネと看護師に連絡。

担当看護師の判断により、バルーンカテーテル留置。

その時すでに尿の量も減り始めていた。バルーンカテーテルには真っ赤な尿が毎日溜まっていく。

8月8日ごろより、ベースの麻薬(フェントステープ1ミリグラム)が効かなくなり1.5ミリグラムになる。

それまでも0.5ミリグラムから1ミリグラムに変えた経緯はあった。

母は我慢強いのか、人に気をつかっているのか、痛いことをあまり口に出さない。

看護師さんや、一緒に住んでいる父が聞いても「大丈夫だよ」と大体返事が返ってくる。

しかし明らかに大丈夫な顔をしていないことが多い。

「本当はすごく痛いんじゃないのか?」

と聞くと沈黙。

沈黙になるときは、

「痛みが実は強い」ということ。大体図星であることが多い。

毎回念を押して痛みの状態を聞く必要があると私は思う。

頓服の飲み方に例外的なものがあったり、またベースの痛み止めである医療用麻薬(フェントステープ)を増やしてくれることもある。

例えば舌下投与のレスキュー(頓服)は、1日に上限4回まで、そして1階 回飲んだら4時間は間隔をあけることと言われているが、

それでも効果が薄れてきた場合、投与して30分たっても効果がない場合はもう一回だけ投与できる。だから合計1日8錠が上限となるという例外的な使い方ができる。

ただこれは呼吸を抑制してしまう副作用のリスクも考慮しなければいけないか…。
(とにかく担当の医療従事者に相談は不可欠!)

痛みを我慢するかどうかは患者個人の価値観それぞれであると思う。

うちの母の場合は多少副作用のリスクがあっても、痛みを和らげる事が1番であった。

「その時が近い」との知らせ

実はこの時期から血圧が落ち始めてきており、意識状態も以前より悪くなったと看護師さんに言われていた。

だから看護師より電話があり、

「バイタルの低下、意識状態の低下があるので会える人は今のうちに会っていて下さい。そろそろその時が近いです」

との旨の連絡をいただいていた。

でも私の感覚では、痛みが強そうな表情をしているときに、

「痛み止めをもうちょっと効くやつにしてもらうから、今の辛さはなくなるからね。」

という言葉をかけるだけで、状態が穏やかになっていった気がする。

実際にそうであった。

「そろそろ、その時が近いです」

という言葉を言われてから四日間経過したが、今も表情は穏やかで声かけに対する返事も比較的良い。

痛み止めを強くしたからといって、状態が楽になるとは限らない。

しかし、
事実を伝えるより、多少の方便であっても

「もっと効く薬になるから、楽になるよ」

という言葉を自信満々に伝えてあげた方が、うちの母には良かった気がする。

8月12日、往診医による訪問。

バイタルが低下していることで往診医からも、

「来週の往診までは間に合わないかもね」と父に言われる。

父もそれを聞いてわかっている事だけど愕然とした表情。

母のためにやれること

その翌日看護師より私に、

「お父様は一生懸命看病してくれているが、フェントステープを貼るのに戸惑ったり、時間がかかったりするようです。お母様も痛みが出ているようです」

「もしよかったらテープを一緒に貼るのをご家族で見ていただけないでしょうか?」

と看護師に相談される。

そこで次男の私が毎朝出勤前の6時にテープの張り替えをすることを申し出る。

そこから亡くなるまでの8日間程度、毎朝母に薬のお世話をする日が続いた。

朝6時に実家を訪ねて、テープの貼り替えを行う。

父が行うと30分以上かかるようだが、私がやるとフェントステープの貼り替えは5分以内に終わる。特に痛がりもしないし、母にとっても負担が少ない。

もっと早くから私が申し出ておけばよかった、と思った。

介護保険を利用して部屋中に設置されていたつっかえ棒型の手すりは取り外され、

亡くなる約1週間前から父が母の隣で寝るようになる。

父は思うように薬の貼り替えができなかった申し訳なさもあったのだろう。

せめて近くにいてあげられることが、父なりの最大の愛情だったのだ。

毎朝母の部屋を訪れるたびに私は、

「今日は息をしているだろうか?」と少し怯えながら入った記憶がある。

部屋を開けて声をかけると「おお、ともか?」と母が私の名前をよぶ。

でもそれを言ってくれるのも最初の3日くらい。

後半は声をかけても軽く頷くか、蚊の鳴くような声を出すのが精一杯。

それでもテープを貼り替えて、少し背中のマッサージをしてあげると、少ししゃべれるようになり、

「あんた早く仕事行かなくていいの?運転気をつけないといかんよ」

と息子の私のことを心配してくれる。

本当に最後の最後まで、自分のことより他人のことを優先する母だった。

薬を拒否する母

8月18日水曜日
仕事中に父から連絡があり、

「お母さんが座薬(吐き気止め)を嫌がる。入れようとしても手で払おうとする。とも(私)が座薬ではなく貼り薬の吐き気止めもあると言っていたぞ」

とのこと。

私は吐き気止めに関して貼り薬があると言った記憶はなく、少々混乱した。

ただ母が苦しんでいて父も座薬の挿入に困っているのがいけないので看護師に相談。

看護師の回答は現時点で座薬以外での吐き気止めで今の状態の母に適切なものはなく、強いものにしたとしても肝臓が薬の影響で弱っている母には、もう使うべきではないとの事。

母がそのようなことを訴えて、父の座薬を体で拒否するのは「肝性脳症」によるのだ。

肝臓で解毒作用が十分に行われず、有害物質が脳に到達して脳の機能を侵す合併症。

仕事を途中で抜けて、母をなだめに行く。

「大丈夫だよ、お母さん。」「吐き気を止めて楽にするのは、座薬しかないみたい。ごめんね」。

すると少し穏やかになり、納得するように「わかったよ、」と。

【亡くなる前日】苦しむ母、見てられない父

8月20日
大量の嘔吐(古い内臓出血のような赤い嘔吐物がたくさん出る)

その日は金曜日。朝の薬を貼って、仕事に行き夕方再び母を訪れる。

一緒にいた父曰く「今日はずっと吐いていた。吐き気が止まらなくて苦しそうで、もう見ていられない」

珍しく父が弱音を吐く。

父の話をじっくり聞いて、母の体をさすり、吐き疲れた体をゆっくり癒す。

私が小さい頃、お腹を壊して吐いている時、母に背中をさすられたりポンポンと軽く叩かれると不思議と気分が落ち着いた。

それと同じように、私も母の背中を優しく擦ると母は穏やかになる。それが私にとって嬉しかった。

20時ごろ、自分の家に一度帰宅。家族と食事をしテレビを見て寝ようとした夜の22時ごろ父から連絡あり。

「お母さんが吐いて苦しそうだ。もう見てられない。点滴が必要だと思う」

と父より連絡。

とりあえず、
「大丈夫だから。すぐそっちに向かう」
とだけ父に伝えて、看護師に緊急電話で相談。

吐いた量が多く、脱水が心配だからと言って現時点で点滴を行う事は、母にとって逆に苦痛を味あわせることになるとの事。

本人が点滴を強く希望しているということでない限り、点滴はあまりオススメしない。

もう自然に体力の低下が訪れる段階で、家族としても受け入れていくしかない。

そのような旨を看護師さんは優しく言葉を選びながら伝えてくれた。

確かに、ターミナルケアのパンフレットにも、そのように書いてあった。

そのことを、父に伝えることと、母の顔を見に行くために実家に向かう。父に伝え納得する。

そうすると父は思い出したように、

「そういえば本人が拒否するから、今日は座薬をやっていなかった、うっかりそのことを忘れていて、嘔吐が多いことに慌てていた」

母が強く嫌がるので、父は優しいから吐き気止めの座薬をやらなかったのだろう。

代わりに私が座薬を入れて、しばらく落ち着いた。

30分間落ち着いたのを確認し、再び帰ろうとすると母がまた苦しそうな表情になる。

いつも以上に苦しそうな表情なので、慌てて洗面器を当てて介抱する。

洗面器いっぱい分の、大量の血の混じった嘔吐をする。大声を上げて、苦しそうに。

さすがにその姿には、こちらも見ていて少し堪えた。

42年間、私を育ててくれた母がこんなにも苦しそうで、悲しそうで、かわいそうで壮絶な姿。

本当に悲惨な病気。

その日は、寝るために帰ったが、ほとんど寝れなかったのを記憶している。

何を思ったか落ち着かず、真夜中に雨の中車を磨いていた。

【亡くなる】お母さん、ありがとう

8月21日亡くなる。

いよいよその日がやってきた。

8月21日早朝6時、私がいつものようにフェントステープを貼り換えに実家を訪れる。

声をかけてもほとんど反応は無い。

ただ少しいつもより荒く呼吸をしている。

新しいテープを貼って、古いテープを剥がす時に少してこずった記憶がある。

その時、母が大きな声で「あーーー」とため息のような声を上げる。
それが終わるとしばらく呼吸が止まる(10秒程度か)。

異変を感じた私は「お母さん!お母さん!」と声をかける。

そうすると息を吹き返したように、また音を立てて息を吸って、吸い切った後にまた「あーーー」と声を出す。

次第に少し苦しそうになり、今までほとんど開いていなかった目を大きく開けて、

私の方を見て、何か私のほうに手を伸ばすような動きをとる。

黄疸により黄色くなり、所々血走っている白目。

苦しいから助けを求めているのか?

それとも何か別のことを訴えているのか?

もしくはもう最後の時が来たと必死で知らせてくれているのか?

声を出した直後にはまた息が止まる。

それが繰り返されるので、別の部屋にいた父も「何事か」と慌てて部屋に来る。

父は苦しそうにしている母の姿が見るのが辛かったのだろう。

「お母さん。もう早く楽になりなよ。早く楽になって」

と優しく声をかけながら体を擦る。

死前喘鳴なのかもしれないが、それ以外の何か意味があるものでは無いのか?

そんな必死で声をあげようとしている母は、

私には、

「もうすぐお別れだよ」

「お母さんはもう逝くからね」

「早くお兄ちゃんも呼んで」

と必死で訴えて知らせてくれているように見えた。

そして兄に連絡、
「お母さんの呼吸が止まりかけている」と。

兄が飛んできて、心配そうにお母さんに声をかける。

すると、ため息と呼吸停止を繰り返した母の不自然な呼吸が不思議とおさまり、穏やかな呼吸になる。

母からすると自ら産んだ息子が2人揃って、父もいる状態。
家族が揃って看取る状態が整った。

そして、そのことに安堵したのか、
つかの間の穏やかな時間が、私たち4人に訪れた。

呼吸は1分間に4回程度。

呼吸が止まると私が「お母さん!」と声をかける。

するとまた息を吹き返し少しだけ呼吸をする。

呼吸といっても、下顎を上下に動かすような呼吸。

呼吸しているように見えてほとんど酸素交換が行われていない死戦期呼吸の状態であった。

手首の橈骨動脈で心拍を確認するが、弱い拍動でほとんど感じられず、

しばらくすると突然、ドドドドドドと脈が連打してその後は本当に何も感じなくなる。

「お母さん!お母さん!」

と声をかけるが反応なし。

私の耳を母の鼻付近に当てるが、息は吹きかからず何も感じず。

顎の動きも胸の動きも止まった。

顔は黄疸で真っ黄色、まだ少しだけ苦しそうな表情のまま、

このとき母はこの世を去りました。

前日の大量の吐血からの翌朝の死。

母は、最後まで朝私が薬を貼りに来るのを待ってくれていたのか…。

母は最後まで私を頼ってくれた。

膵臓癌と診断されて3ヶ月余り。悲しくて、ただ悲しい3ヶ月だった。

でも、「あんたがいてくれて良かった」と母に必要とされた、ある意味幸せな3カ月間でした。

お母さん、

辛かったね。痛かったね。苦しかったね。

でもやっと楽になれたね。

今まで育ててくれてありがとう。

療養中に僕が、

「仕事で新たな挑戦するのに足がすくむ時がある」

と漏らした時、

「あんたなら出来る」

と今まで言ってくれなかったような言葉を何度も言ってくれた。

ありがとう。忘れません。

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