いろんなことをあきらめたら、うつは消える?
「あきらめが肝心」という言葉をよく聞きます。うつなどの心の不調を克服する上でも、
この考え方はとても大切です。
この記事ではどん底の人が様々なことを諦めることの大切さについて語っていきます。
目次
あきらめることの大切さ
あきらめることで、様々な心の病、人生の苦しみが楽になる事はなんとなく理解している人もいるかもしれません。
それがわかっていても人はなかなかいろんなものを手放すことはできません。
それは、諦めた先に本当に幸せがあるのか?
何かを手放す事に対する恐怖心、今まで積み上げてきたもの、手に入れてきたものへの執着あるからでしょう。
そこで本当に、いろんなものを諦めた先に幸せがあるということがわかっていれば、
それほど物事に執着せずに済むでしょう。
また自分にとって、何を諦めずにいて、また何を諦めれば本質的な幸せが得られるのか?
ということがわかっていれば、迷わず様々なことを手放すことができるでしょう。
ちなみにこの記事は、お金や家族、会社での地位を捨てて世捨て人になるための記事ではありません。
そのような文明社会において生きていくために必要なものはしっかり持ちつつ、
ほど良い距離をとりながら幸せに生きていくことを目的とした記事です。
この6つをあきらめよう!
”お金”をあきらめる
お金に対する執着は、お金がなくなることに対しての恐怖心にもつながります。
今の世の中お金があればある程度何でもできますし、逆にお金がないとこの国ではかなり惨めな思いをする事は避けられません。
私の世代(団塊ジュニア)は、小さな頃夢を持つことが大事だ、今のうちに好きなことを見つけろ、なりたい職業に就くことが大事だ、と1部の大人に教えられてきました。
しかしながら本当にやりたい仕事をするには、かなりのリスクが生じると大人になっていくうちに気づきました。
例えば私は子供の頃、「クレープ屋さん」になりたいなと思っていた時期がありました。
しかし実際にクレープ屋さんになるにはチェーン店でアルバイトするか、もしくは本当に自分の思い通りのクレープを作るためには、独立開業しなければいけません。
高校や大学の頃から、独立開業をする覚悟を持って勉強する人などなかなかいないと思います。
またクレープ屋さんとして独立開業したとしても、10年後生き残っている確率は数%と言われている時代です。
同年代の人たちが、会社に就職して数十万円の給料を手に入れている事を横目に、クレープ屋さんとして事業を進める事は一般的にかなりリスキーなことでしょう。
お金のことが心配で、とても自分のなりたいクレープ屋さんを目指すことなんてほとんどの人ができるわけがありません。
こんなことを考えてクレープ屋さんになることを諦めた私は、
それほどクレープ屋さんになりたいと言う気持ちが強くなかったのでしょう。
しかし世の中には私のようなクレープ屋さんの事例以外にも、
やりたいことや将来の夢と言うものを持ちつつも、なかなか行動できずに葛藤を抱えている人もたくさんいると思います。
何がそうさせているのか?
それはお金に対する恐怖心ですね。
ある程度お金に対する恐怖心を持つ事は大切なことですが、お金に対しての恐怖心を持ちすぎると、お金への執着が際限なくあなたを取り巻きます。
お金がたくさんあったら、私はもっと幸せなのに…。
と思っている人は要注意です。
心理学の世界では、幸福感に関しては2つの説があります。
①1つは「〇〇があったら幸せ」というボトムアップ説。
②もう1つは「出来事そのものよりも、個人の考え方や性格が幸福感を決める」というトップダウン説。
ボトムアップ説と、トップダウン説と言うのは長らく心理学の専門家の間で議論されてきましたが、
近年ではより多くの研究でトップダウン説の方が正しいという結論に足しています。
つまりこの場合、
“お金をどれだけ持っていても、不幸な人は不幸である”
ということ言えます。
お金に対する恐怖心、お金からの束縛を少し緩めてみて、のびのびと自分の生活、自分らしい生活をしてみませんか?
いい意味で、お金はあきらめましょう。
もしかしたらあなたのライフスタイルは大きく変化するかもしれません。
もしあの時、この考えを持っていたら私はクレープ屋さんになっていたのかもしれません(笑)。
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”友達を作ること”をあきらめる
友達が多い人というのは一見すると魅力的な人という印象があります。
小学校1年生になる時に、
「1年生になったら、1年生になったら、友達100人できるかな♪」
という歌に象徴されるように、
友達が多いこと、友達をたくさん持つ行為は正しいことであり、魅力的な人間としてのステータスであるかのように私たちは教育されてきました。
何か人と違ったことをすると、
「あなたそれじゃぁ友達なくすよ」
と私もよく言われたものです。
確かに友達が全然いない人、友達を全く作ろうとしない人は、「どこか癖がある人」「社会に適応できない人」「何か重大な欠点がある人」、というような印象を持たれます。
確かに正しいのかもしれませんが、ただ寂しいから、友達がいることを他の人に自慢したいから、付き合いが多いことで何か承認欲のようなものを得たいから、
という理由で、むやみやたらに友達を作ろうとする事は精神的に疲れが溜まる行為です。
新たな友達を作ろうとしたり、その人間関係を維持するために自分の生き方の本質、人となり、自分らしさと言うものを犠牲にしなければいけない時もあります。
集団生活をしていると、みんな同じ方向を向いて歩かなければいけないと言う、
いわゆる「同調圧力」というものが生じてきます。
実はこの「同調圧力」というのは現代の人々を苦しめている正体でもあります。
この同調圧力は、集団を構成している人数が多ければ多いほど大きく働きますし、誰かが違う意見を持った時にその意見を言いづらくさせてしまいます。
明治大学教授で、教育やコミニケーション技法の専門家である齋藤孝先生は著書の中で以下のように述べています。
人と仲良くやりたいと考えれば、ある程度の付き合いも大事だろう。
しかし無理してまで周囲のあらゆる人と通生会う必要はあるのか、立ち止まって考えてみることをお勧めしたい。
そもそも現代は人付き合いと恋愛が人の頭を占めすぎていると、私は思っている。
自分の中の地下水を組み上げることは技である。
それが自在にできるようになると、他の人から見たときにも魅力になる。
何より、「いざとなったら1人でもいいのだ」と思える潔さは、安心感になる。
引用:『孤独のチカラ』齋藤孝
つまり寂しくて、魅力的な人間と思われたくて友達を作ろうとする行為は、かえって魅力的ではないばかりか、自分を疲れさせてしまいます。
友達をたくさん作るのはあきらめましょう。
「自分は1人でもやっていける」という覚悟のもと、
自分の感覚を信じて生きることができる人は魅力的であり、一人ぼっちでも平気です。
そればかりか結果的に本当に分かち合える仲間が増えるでしょう。
”みんなから好かれること”をあきらめる
これも、無理して友達を多く作ろうとする行為に通ずるところがありますが、他人の評価を常に気にしながら生きる事はとても窮屈です。
「人から好かれなければならない」と言われながら育ってきた人は多いはずです。
親や教師が子供に向かってそのような言葉を投げかけるのは、間違いなく愛情からくる行為でしょう。
しかし私たち(ちなみに私は30代後半)が子供の頃の大人と、私たちの時代では価値観が違いすぎますし、必ずしも「人から好かれなければならない」という当たり前の教訓すら役立つとは限りません。
戦後から高度成長期ぐらいまでは、物質的な豊かさを求める時代ですが、平成以降の世の中においては、間違いなく精神的な豊かさを求める時代です。
転職率の高さや、離婚率の高さ、うつ病などの精神疾患の人口増加を見ればわかると思いますが、明らかに価値観は変わってきています。
終身雇用の時代なんてとっくに終わっているし、死ぬまで同じ配偶者と居続けることも、今や常識なんかではありません。
すなわち、たとえ親であろうと今と違う価値観の世代の人たちに「人から好かれなければいけない」「人から嫌われるような事はやってはいけない」などと言われ続けて、
それを過度に気にしながら生きていると、真に自由な生き方はできません。
「人から好かれなければいけない」と思って生きる人生は、とても不自由な人生です。
岸見一郎先生のアドラー心理学に関するのベストセラー、『嫌われる勇気』には、
・「自由とは、他者から嫌われることである」
・他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを支払わない限り、自分の生き方を貫くことができない。
部分引用:『嫌われる勇気』 岸見一郎
と書かれています。
まさにこれは、
「人から好かれなければいけない」
「人に嫌われるようなことをやってはいけない」
という教えの真逆の教えが自由になるための教えということになります。
ここで大切なのは、積極的に嫌われなさいということではありません。
そうではなく、
嫌われることを恐れずに、自分の感覚に従って生きることが大切だ。
ということです。
結果的に人から嫌われることもあるし、逆に人から好かれるかもしれません。
しかしそれは私たちの努力でどうにかできるものではありません。そもそもそれは私たちの課題ではありません。
人から好かれないとやっていけないと思い込んでいる人は、思い切ってその心を手放して、自由になりましょう。
人から好かれることをあきらめましょう。
大丈夫です、あなたにとって本当に大切な人からは嫌われませんから。
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”出世すること”をあきらめる
会社に入ると係長になって、課長になって、部長になって、さらに最後は取締役になるというのが理想的な出世コースでしょう。
出世すると収入も上がっていくし、多くの意思決定権も与えられます。
そして周りにいる部下たちは、あなたの機嫌を取ろうとするし、親戚や近所の住人や学生時代の友達から尊敬され異性からもモテます。
胸を張って同窓会にも出られるでしょう。
確かにそれはとても気分がいいものです。
課長や部長に昇進てきたときの喜びと言うのは、何とも言えない快楽でしょう。
しかし人間は弱いもので、その快楽というのは長続きはしません。
人間はステータスや知識、お金に依存するもので、それに対して強く執着すると、
「もっともっと、、」と際限なく欲望が湧いてきます。
また昇進していくたびに、あらゆる責任もその人に生じてきます。
時間的な融通もきかなくなるのが一般的です。
こんな面白い研究結果があります。
プリンストン大学のダニエル・カーネマン氏の研究によれば、年収と幸福度は必ずしも比例はしないようです。
研究によれば年収750万円までは幸福度は上がっていきますが、それ以降は変化はなかったそうです。
(2008年から2009年、アメリカで45万人を対象にした調査)。
また日本で同じような研究した結果においては、
年収700万円以上から、幸福度が徐々に下がっていったそうです。
もちろん全てにおいてこれが当てはまると言うわけでは無く、あくまで研究結果によればですが、
年収700円と言えば、ちょうど日本の民間企業の中間管理職に値する額ではないでしょうか?
おそらくこれは、責任が伴うにつれて自分の時間が減ったことと関係しているのではないでしょうか。
明治大学教授の諸富祥彦先生は、著書の中で次のような考えを進めております。
人生で最もかけがえがなく大切なものは時間です。
魂が満たされ、喜ぶ時間です。
自分の人生に与えられた限りある一刻一刻をお金や名誉のためにつぎ込むのはあまりにも、もったいないことです。
もしあなたの日々を心の深いところが喜ぶ時間に変えるために、多少収入を落とせばすむのであれば、
私は迷わずそちらをお勧めします。
引用:『嫌われても折れない〈自分〉を作る101の言葉』諸富祥彦
出世競争をしていて、胃が痛くなったり、休みの日疲れ切ってどこにも行く元気がない人、原因不明の頭痛や、吐き気を催してしまっている人は、、
思い切って出世することをあきらめましょう。
その先に幸せが無いことを体が教えてくれています。
”安定した生活”をあきらめる
「贅沢はしなくていい、安定した生活をしたい」
と言う人がいます。
安定した生活とはなんでしょう?
今の世の中安定した会社、安定した事業、すなわち「安定した生活」など存在するのでしょうか?
2500年以上前から教えられている原始仏教の教えとして、諸行無常は大前提です。
この無常の世の中において、どんな物でも、どんな考え方・概念においても変化しないものは1つもありません。
だから普通に生きていて安定した生活を得るなんて事はほぼありません。
大企業のサラリーマンをやっていて、生活が安定していると言い切れるでしょうか?
収入は安定していますが、立場を維持するためにやりたくない仕事をやり続けて、精神的にボロボロになっている人も中にはいます。
そもそもどんな大企業においても、自分でコントロールできる以外のものを収入源にしている限り、収入が安定するなんてありません。
数年前に起きたリーマンショックのように、いつ出勤停止の措置が取られるか分からないし、
また体の病気にかかったりうつ病などの心の病気にかかった場合はいつまでもその会社が面倒みてくれるとは限りません。
プチリタイア・プロデューサーの石井貴士さんは著書『会社は絶対、やめていい!』の中で次のように述べています。
60歳で定年を迎えて、100歳まで、毎年300万円で暮らすと考えると、60歳までに、300円× 40年= 1億2,000万円の貯金が必要な計算になる。
もし、あなたがサラリーマンを続けて、定年までに1億2,000万円の貯金ができると言うのであれば、サラリーマンのままでも構わないと思う。
ただし、それでも「大きな病気をしなければ」という但し書きがつくが…。
ここで、考えてみてほしい。
この超高齢化時代を迎えるときに、60歳という若さで働けなくなってしまう、サラリーマンというビジネスモデルは、正しいと言えるだろうか?
中略
今のうちから、60歳以上になっても稼げるビジネスモデル、いつ会社を辞めても生きていけるだけのスキルを身に付けておいた方が、安全なのではないだろうか?
引用:『会社は絶対、やめていい!』 石井貴士
ハナっから安定した生活を求めて、いい学校やいい会社に入って、後はその所属している組織に依存して生活の安定を求めること自体ナンセンスです。
そもそも、それが安定とは限りません。
ストレスで心に症状、体の症状が出ているなら、そのお仕事に見切りをつけて自分に向いてる仕事、自分がワクワクするような仕事を探すのも大切な勇気です。
一見不安定な生活に見えても、”心が健康”であれば、普通に生活していくことに困る事はほぼありません。
”心が健康”なら何とかなります。
やりたいことがあっても、失敗する恐怖、惨めな思いをして笑われる恐怖店の方が大きくなって、何もせずに「安定」という名のもとに逃げてしまうのは悲しい人生です。
悲しい人生を送るくらいなら、安定した生活なんてあきらめましょう。
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”長生きすること”をあきらめる
しつこい悩みが消えない時、
あれこれ心配が出てきて行動できなくなっている時、
自分が何をしたいのか整理できない時、
そんな時は”自分が永遠に生きるかのような錯覚に陥っている”ことを疑いましょう。
過度な不安や過度な心配性は、生きることに対する過剰な執着、もしくは死ぬことに対する過剰な恐怖心から来ているかもしれません。
2,600年前の原始仏教の教えでは、「自分が死ぬんだ」と意識していく事は、
実に当たり前のことで、大げさな事でも何でもないそうです。
つまりこれは死ぬことを恐れること自体、自然の法則に反した生き方をしているという証拠なのです。
1つの知識として誰もが「生きているものはいつか死ぬ」ということを理解していると思いますが、本当にそれを自分自身に当てはめて受容できている人はほとんどいません。
本気で”死”を意識して生きている人は、あれこれ悩んで時間を無駄にはしないし、学ぶ事をサボったりはできなくなります。
当然のこととして目の前にある自分に課せられた宿題を、一生懸命取り組むことでしょう。
つまり「今ここ」を大切にして丁寧に生きているのです。
あれこれ悩んでしまって自分で自分のことも決められない状態にある人は、
おそらく普段から”心ここにあらず”の状態が当たり前になってしまっているかもしれません。
それと同時に自分の命が永遠にあるかのような錯覚に陥っていると思われます。
そんなことを言っている私も全然偉そうな事は言えなく、今でも新しい行動をするときはあれこれ最悪のパターンを考えてしまいます。
だから私は自分の部屋に、
「自分の命ははかない」
と紙に書いて貼ってみるようにしています。
今世紀最後のカリスマ、アップル創業者のスティーブ・ジョブズも有名な名言を残していますね。
以下は、ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチの一部です。
私は毎朝、鏡に映る自分にこう問いかけることを日課にしてきた。
「もし今日が人生最後の日だとしても、今からやろうとしていることをするだろうか」と。
「違う」という答えが何日も続くようなら、生き方を見直せということです。
引用:『あした死ぬかもよ?〜人生最後の日に笑って死ねる27の質問〜』ひすいこたろう
”永遠の命”という錯覚を手放した人は、迷いもなく悩むこともそれほどないでしょう。
決断力もあるので、生きているうちにやり遂げることもたくさんあります。
もしかしたら壮大なことをやり遂げて、充実した”文句なし人生”を送れるかもしれません。
長生きすることなんかあきらめて、やりたいことをやりましょう。
そのほうが結果的に早死にせずに済むかもしれませんし。
おわりに
あきらめるの語源は、「明らかを極める」という言葉から来ているそうです。
あきらめることは、言ってみれば「物事の本質を悟る」、そんなニュアンスの意味なのでしょう。
たくさんお金を持っても、社会で高い地位ても、たくさんの仲間、家族を増やしても、心の奥底にそれらは「すべてはかない」ということをしっかり理解することが大切です。
当然ですが「自分の命もはかない」ということも例外でなく大切です。
本気でそのことを理解していれば、あらゆる物事に対しての執着はなくなります。
原始仏教やその他の精神世界の立場からすれば、
すべての苦しみ、心の病、身体の病なども言えることですが、極端なこだわりや、物事に対する執着に起因すると言われてます。
つまり、
“手に入らないものをあきらめられない心”
と言うのは、心にとっても体にとっても良い事は何一つありません。
本当の意味であきらめること、手放す心を持てたなら、
あきらめた途端に気分が軽くなり、心地よい気分でいられます。
そうすれば自然とあなたにとって精神的にも物質的にも、豊かな人生が訪れることでしょう。
あっ、ちなみにあきらめる事をは、何も宗教団体や、その他の自己啓発団体に行かなくてもできますので。
自分の心に留めておくことで、十分生活に生かすことができると思います。