誰かのために生きる? or 自分のために生きる?
この記事では生きる意味について考えていきたいと思います。
結論から言ってしまうと、、
”誰かのためにいきること”に対して、人生の意味を求めてはいけないし、
誰かのために生きていたら幸せにはなれない、と私は考えています。
心を強くして幸せに生きるために、この考えは大切だと考えています。
どういうことでしょう?
興味のある方は続きを読んでください。
目次
はじめに ~誰かのために生きてはいけない~
”自分が生きる意味”を考えたことはありますか?
こういうことを考えるのは悩みやすい人と思われがちですが、
元気な人も落ち込んでる人も考えた方が良いと私は思います。
確かに心が疲れた時、
「こんな辛いしんどい思いまでして、なぜ生きなければいけないのか?」
なんてことを考えやすくなってしまいます。
そういう時はその気持ちと、とことん向き合うことが必要です。
でも逆に、人生がうまくいっていて、心も元気な時はどうでしょう?
あまり考えないですよね。
でも元気な時、落ち込んでる時に関係なく、常に生きる意味や目的を問いかけることは、
今後の充実した人生につながります。
そして何かトラブルが起きて人生に迷いが生じた時にも、
自分の信念が固まっていることで、無駄にエネルギーを使わずに問題解決できる人になれます。
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”誰かのために、、”という生き方では幸せになれない!たった2つの理由。
理由①:誰かのために生きれる状況が続くとは限らない
生きる意味を考えるとき、
「誰かのために生きる」というスタンスは、やめておきましょう。
確かに誰かのために自分を犠牲にして、働く、我慢する、尽くす、というのは一見素晴らしいことです。
しかし、”人のために生きる”という考えに生きる意味を求めると、
新たな迷いが生じやすくなり、自分のミッションに沿った人生を生きれなくなります。
40代50代までは、家族の為、会社のため、地域のために貢献して、その貢献感が自分の幸せになりえるでしょう。
しかし60過ぎたあたりから、体は徐々に衰え、他者に貢献するどころか周囲の世話になる人のほうが多くなります。
もちろん60歳、70歳を超えても第一線で活躍されている人は、たくさんいます。
しかし、どんな人にも体の衰えは必ずやってきます。
そして死は誰にも等しく必ず訪れます。
そんな体が衰えた人生の終盤に、他者のため、社会のために生きるとはなかなか言えない状態になるものです。
子孫を残すという本来の目的が終わっている以上、
「あなたは何のために生きているのですか?」と聞かれて
「私は社会に役立つために生きてます」とはなかなか言えません。
現実にはだんだん役に立たなくなるのですから、それでは答えにならない。
引用:『60歳からの「生きる意味」』 森村誠一 堀田力
つまり誰かのため、社会のために生きるというのは、本来の生きる目的、生きる意味にはなりえないと言えます。
理由②”誰かのため”の、その”誰か”のためにならないことの方が多い
仮に、いつまでも体が元気で、他者のために尽くして多くの社会貢献ができる人がいたとします。
そうすると、今度はその人が尽くした相手、その人たちは何のために生きているのか、
またその人たちが生んだ子供や尽くした相手は何のために生きているのか?
尽くした相手が、特に意味もなくダラダラと過ごしていると、
尽くした人の人生の意味も無くなってしまいます。
誰かのために生きることに執着ししすぎて、他人の人間的な成長の機会を奪うことにもつながります。
人の成長を奪うことは、長期的に考えれば罪にさえなりえます。
助けた相手が、必ずしも「今度は助ける側になろう」となるとは限りません。
その相手に「人生に意味を持て」とか「お前も誰かのために尽くしなさい」というのも変な話です。
相手の反応に執着し、相手に何かを期待して何かをすることは、嫌悪や苦しみにつながります。
それに、恩着せがましくてかっこ悪いですね。
結論:”生きる意味”は他者や社会に求めてはいけない。→じゃあどう生きる?
”自分のため”に他人に尽くす
人の役に立つことはするな!
とか、
人のために生きることはバカげてる!ということを言いたいのではありません。
むしろ大いに人のために尽くして、社会貢献はしてくべきです。
しかしそれはあくまで”自分のため”にです。
見返りを期待して他者貢献するわけではありません。
あくまで自分の徳を積むため、真に幸福感を得るためにです。
人間は世の中にとって有益な存在であると実感した時、生きる勇気が湧いてきて真に心が満たされます(アドラーの共同体感覚)。
また生きる意味を問うのではなく、人生から、世の中から問われている存在であること。
その問いかけに具体的に答えてくことで、人生は満たされます(V・Eフランクルのロゴセラピー)。
いずれも自分の人生を満たすために、他社にとって、世の中にとって有益な存在であろうとするわけです。
最終目標は他者のためではなく自分の為です。
自分の”生きる意味”を考えるという立場に立った時に、
”自分以外の誰かのために生きることが、自分の生きる意味であり人生の目的である”
という考えには無理があります。
このようなスタンスでは、いずれ無力感を感じ、疲れを感じる時が来ると私は考えます。
自己犠牲の上に成り立った”生きる意味”は、心のエネルギーを奪い、
本来の人生の目的を果たせなくなります。
他者のために生きる、社会貢献のために生きるという生き方は、
崇高で素晴らしい生き方であることには変わりませんが。
”誰かのため”が”生きる意味”または”生きる目的”にはなりえないのです。
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まずは、自分が幸せになる
浜松医科大学の名誉教授の高田和明先生は、人間の幸せについて次のように言っています。
禅がもし至上の真理を教えるものなら、それは一般社会の出来事についても当てはまらなければいけない、しかしその解釈は各人が自分の見識ですればよい。
そのためにも、自分が幸せであるよう努力しなくてはならない。
引用:『心が奮い立つ禅の名言』 高田和明
禅の考えを社会に生かすのであれば、自分がまず幸せであることが大事ということ。
つまり他者のために尽くすことが自分の生きる意味だと思う場合は、大前提として自分が幸せになることを第一に考えることが重要なのです。
人によっては、
「自分の幸せだけを考えてはいけない」
「そんなのは後回しにしなくてはいけない」
「自己犠牲の覚悟があってこそ、人を幸せにできるのだ」
「私心あっては志とは言わない」
という人がいるかもしれません。
しかし、他人のために尽くすこと自体が自分の幸せだと感じることが出来ないと、
他人のために尽くすなんてことはできません。
自分が幸せだと思ってこそ、初めて他人のために働けるのです。
当然自分が不幸だと感じている人は、他人を幸せにすることなどできません。
だから、
自分が幸せになるために努力するということは、
決して自己中心的な考えとは言えないのです…。
むしろ本質的な他者貢献のための努力と言えるでしょう。
自分が幸せだと、周囲も幸せにできる、あるいは周囲も自然と幸せになってきます。
そうなると結果的に本当の意味で”人のために生きる”ことが出来ます。
自分が生き甲斐を持ち、充実した満足な人生を送るために日々努力することは、
嫉妬心や競争心、敗北感からの苦しみから解放されるために大切な事なのです。
自己犠牲が一切無い他者貢献をすることで、人は自然と幸せになり、
生きる意味をありありと感じることが出来るのではないかと私は解釈しています。
おわりに
私自身、福祉系の仕事で人との触れあいの現場に携わってきましたが、
”人のためなら頑張れる”と頻繁に口に出して言うスタッフほど、
あまり心に余裕が無い人ばかりだったように思えます。
そして昔から面倒見がいい立派な人ほど、
自分が動けなくなった時の、精神的ショックから立ち直れない人が多かったです。
どちらも、本来の”生きる意味”を見いだせていない人たちなのかもしれません。
まあ、偉そうに語る私も、それを見いだせていない医療スタッフのほうでした(汗)。
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