無断欠勤から始まった人生の転落、フリーランスという生き方へ【挫折克服体験】

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命の儚さを知り、フリーランスで自分らしい生き方へ!

今回も挫折克服体験を情報提供いただきました。

自分の命をいかに使うか?

人生の意味とは?

について考えさせられます。

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目次

はじめに

今回の情報提供者は、数年前に命を絶ちたいくらい絶望して、

ある友人の死をきっかけに、生き方を変えた方です。

この人の生き様がすごいんです!

「会社に行きたくない!」

「働くことに疲れた、死にたい」

「何のために生きるのか?」

そう悩んでいる人は、是非読んでください。

【ここから体験談:無断欠勤から始まった人生の転落】

経緯:無断欠勤から始まった人生の転落

私は地元の会社に大卒で就職してそれなりに楽しく働いていましたし、仕事量は多くて残業続きでしたが退職は考えていませんでした。

社長は厳しかったのですが、他の従業員と傷を舐めあうような形で精神的に支え合っていたのです。

仕事を続けるうちに色々なことが分かってきましたし、スキルも向上してスムーズに動けるようになってきました。

小さな会社だったので、一人一役ではなく一人三役ぐらいの仕事量を毎日こなしていましたが、やはり身体の疲れが誤魔化せないようになってきました。

毎日帰ったら食事をして風呂に入って寝ますが、それでも疲れが抜けないのです。

23時に帰宅して翌朝5時に出勤するなど働き方もどんどんハードになってきて、毎日惰性で動いているような感覚です。

しかし、働けば働くほど任される仕事も多くなってきて、社長や従業員からの信頼も厚くなっていきました。

年上の従業員に指示をすることもありましたし、取引先の偉い方々との飲み会など精神的にプレッシャーのかかる日々が続きました。

ある日、私は会社に向かおうとしましたが何故か途中で寄ったコンビニエンスストアの駐車場で動けなくなってしまいました。

急病という意味合いではなく、急に脳の機能が停止したように体が全く動かないのです。

仕事が始まる時間になっても動けず、遅刻しているので上司から電話がかかっていますが全く出ることができません。

人生で初めて無断欠勤をしてしまい、やってしまったという後悔の気持ちも加わって更に思考できなくなりました。

その後、結局自宅に帰ることもできず親が心配して警察に連絡をするという話になって、ようやく目が覚めたという感じです。

無断欠勤は確かに社会人として失格な行為ですが、あえて無断欠勤したのではなく体が動かなかったという部分に恐怖を感じました。

数日休むと体が動くようになりましたが、無断欠勤をしたので再び働くという気持ちになれず退職を決意しました。

最低限の引き継ぎを行って、懲戒解雇ではなく自己都合による退職ということで話がまとまったのです。

克服のきっかけ:人生の意味を毎日考える

燃え尽き症候群なのか、うつ病だったのか分かりませんが、退職してからは職探しをする気にもなれず家で毎日過ごしていました。

毎日パソコンの前で過ごし、ほとんど何も会話をすることなく日々が過ぎ去ったのです。

このような現実と、仕事を頑張っていた時の自分を照らし合わせると非常に強い嫌悪感に襲われました。

今の自分は何をやっているんだという怒りもありますが、結局何も人生は変わりません。

次第に、ひどく落ち込むようになりました。

自分に価値は無い、人生などくだらないというネガティブな気持ちでいっぱいになったのです。

これまでに落ち込むことは多々ありましたが、人生を絶望するという感情になったのは初めてなので不思議な気持ちでした。

基本的にネガティブな性格になってしまったので、近所の人から笑い者にされているのではないかなど被害妄想も強くなりました。

次第に死にたいという感情に支配されて、再就職の活動どころか生き続けることすら厳しいような状態になってしまったのです。

そんな時に、中学生時代の友人が亡くなったという訃報が入ってきました。

私はショックを受けましたが、同時に生きる希望のようなものが見えてきたのです。

それはもちろん友人の死を歓喜したという意味ではなく、人生は本当に一度きりなんだという当たり前の事実を再確認できたからです。

もう友人とは話すこともできませんし、二度と動くことはありません。

そんな人生の儚さを垣間見ると、気持ちが激しく動かされました。

人生について毎日考えていると、あえて死に急ぐ必要はないという結論に至り気持ちがポジティブになったのを鮮明に覚えています。

どうせいつか死んでしまうので、ルールを守って思い切り楽しめば良いと腹を括ったのです。

再起:ボランティアから再スタート

気持ちが前向きになりつつあった時に、熊本で大きな地震が発生しました。

ずっと家で引き籠るような生活をしていて、何か社会に貢献したいという気持ちが強まっていたのでボランティアに行こうと決心しました。

ひどい状態に変わり果てた姿を見ると、こちらも気持ちが折れそうでしたが、肉体的な疲労はそれほど感じることなく逆にエネルギッシュになりました。

短期間のボランティアでしたが、人の為に生きるという気持ちが強固になったのを覚えています。

人生の儚さを痛感して、やりたいことを貪欲に追い求めたいという気持ちになったので、今はそのように生活しています。

私は旅行が好きなので自由に旅行したいですし、それを実現するには会社員が最良の手段ではないと判断しました。

所謂どこにも所属しないフリーランスという形で、自由に稼ぎつつプライベートも楽しんでいます。

定職に就いていないということで気持ちがナーバスになることもありますが、人生を謳歌するという意味では完全に間違った判断ではないと思います。

現在は、フリーランスという立場を生かして何が自分にできるのかを模索している最中です。

何をやるにしてもお金がかかるので自由に挑戦できる訳ではありませんが、迷って立ち止まっている間も残されている時間は少なくなるという意識があります。

友人の死を目の当たりにする前は自分の人生に残された時間を気にすることもなかったので、今は積極的に人生を楽しめていると実感できます。

私はたまたま友人の死という体験から色々なことに気付いて改善できましたが、やはり普段から残されている時間について考えておくべきだったと強く思います。

最初から考えておけば無駄に過ごす時間はなかったです。

極論を言えば、明日交通事故を起こして死んでもおかしくないのが人生と言えます。

ただ、死について考えるのを避けたり嫌がったりすると信念を確立できないまま人生を終えてしまうかもしれません。

経験からの学び:人生を楽しむ

人生をつまらないと感じている人は、多くなっているように思います。

残念ながら日本は自殺率も高く、働き盛りの世代が自ら命を絶ってしまうことも珍しくありません。

私も自分の人生を終わらせようとした過去があるので、絶望する気持ちは理解できます。

しかし、結局誰でも人生は終わるという現実をしっかり考えると道は開けてきます。

おわりに

友人など身近な人の死を目の当たりにすると、悲しみの裏側にどこか自分を奮い立たせる力が湧いてくる。

私にもそんな経験があります。

決して人の死を喜ぶような不謹慎的感情ではなく、

「死ぬのは友人だけではなく、いつか自分にもその順番が回ってくる」

と実感すること、そのことで、

「自分は今までの命を無駄に生きていないか?」

「自分の命は永遠にあるという錯覚に陥った生き方をしていなかったか?」

そんな生々しくも、人生の本質を突いた自問をするようになるものです。

大切な人の死を受け入れたかこそ、湧いてくる感情ではないでしょうか?

原始仏教では、

「すべてはかない」と納得ることに本当のやすらぎが待っていると考えられています。

人の命も、自分の命も全てはかない。

努力して築いた地位も名誉も、

せっせと貯めたお金も、

例外なく、すべてはかないです。

あの世に持っていけないものは全てはかないので、そのことに執着することなんて、

とても馬鹿らしいこと。

そうは言っても、現実世界で生きていく上でお金はあったほうが良いし、

「人生お金じゃない。お金があっても幸せにはなれない」

なんて説教する人は、実際世の中からあまり相手にされません。

しかし、

体が動かなくなったり、思考が停止してしまうほど、

現在の生活手段や安定収入に執着してしまう生き方は、とても悲しいことです。

世捨て人になって聖人のような生き方はできないけど、

今回の体験談の方のように、

自分なりの世の中とのかかわり方を見つけて幸せに生きる道は、

いくらでもあると思います。

最後の一言が、悩みや迷いを断ち切るため究極の名言です。

結局誰でも人生は終わるという現実をしっかり考えると道は開けてきます。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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