前回に引き続き、私たちの数年にわたる不妊生活の体験記を書きます。
流産や不妊の苦しみは、なかなか周りに理解されず、終わりの見えない辛い試練です。
不妊でうつになる人もたくさんいますし、そんな人たちの参考になればと思います。
※前回の体験記はこちら↓
>>壮絶!不妊治療体験記① ~流産、不妊外来、体外受精の決断まで~
目次
早く苦しみから解放されるために体外受精を決断
体外受精へと踏み切った私たちでしたが、その決断は簡単なものではありませんでした。
当時体外受精はだいぶ一般的になってきていましたが、世界初の体外受精で生まれた赤ちゃんはまだ30歳。
体外受精が昔も今も安全なのか、まだ未知数の状態でしたし、やることに対する不安や罪悪感も少なからずありました。
またスムーズに妊娠したとしても、費用は約60万円程度。若い私たち夫婦にとって決して安いお金ではなかったです。
しかし、そんなことより子供が出来ない苦しみの方が断然勝っていたのでしょう。最終的に体外受精をするという決断を2人でして、腹をくくりました。
不安より子供が出来る楽しみや、苦しみから解放される期待が膨らんでいました。
採卵、移植、妊娠判定、運よく一回で妊娠に
体外受精というのは、まず排卵誘発剤でたくさんの卵子を排卵させ、専用の針で卵巣を刺したくさんの卵子を取る「採卵」という作業を行います。私の妻の場合は全身麻酔で行いましたので、妻の麻酔の対する恐怖感があったのを覚えています。終わったあと泣いていました。
その作業は日帰りで行えます。
そして男性の方は、無菌状態の精子をつくるため薬を数日接種して、5日間以上の禁欲をして精子採取(私は気合を入れて10日間禁欲しました)。同時に検査をします。
その時の精子の数が20000匹、うち生きている精子は20%程度でした。
良好な精子と卵子を試験管で自然に受精させて受精卵にする方法と、顕微授精と言って顕微鏡下で培養士が人工的に精子を卵子の中に注入する方法があります。
私たちは顕微授精を3つお願いして、残りを通常の体外受精にしました。
その結果、良好な受精卵は7つでき、もっともよい胚を子宮に戻す作業を行います(胚移植)。
最も順調に育っている胚を移植して、残りの6つの胚は凍結保存します。ちなみに凍結保存にかかる費用は1年で20000円でした。
胚を移植して約1~2日で順調にいけば着床すると言われていますが、妊娠判定できるのは胚移植後14日後です。
そして運命の14日後、妻は夕方一人で病院に結果を聞きに行きます。そして私は神社に行って神頼みをしていました。
夕方の6時頃、妻からのメールの着信音。
ドキドキしながらメールを見ると、
「おめでとう。妊娠です」
私は喜び叫んで飛び上がりました。
>>不妊治療の赤ちゃんでも、お母さんのお腹を選んできている。自信を持って!
難産を経て無事男児を出産
流産から約1年後の再度妊娠、そして不妊治療外来に通い始めてから約半年、これを長いとみるか短いとみるかは人それぞれですが、私たちにとって本当に長い長い日々でした。
それから十月十日、大きなトラブルなく順調に過ごせて、予定日より約5日早まりましたが無事出産の日を迎えることが出来ました。
出産日は突然早朝に破水し慌てて病院に、朝から夕方5時まで約12時間陣痛に耐えました。
しかし最終的に医師の判断で緊急帝王切開。胎児が産道を通ることが出来ずに、長時間経過していたので、細菌感染の恐れがあるとの判断です。
私としてはとにかく無事に生まれてきてくれればよかったので、帝王切開に対する抵抗や不安はあまりありませんでした。赤ちゃんや母体の安全に変えられるものはありません。
そして無事に生まれた赤ちゃん。元気な男の子でした。
目も顔の形も生まれたばかりにしてはキレイでとても可愛くて可愛くて感動して泣けてきました。
はじめてわが子を抱っこした時の感動は、たまらないくらい幸せです。その幸せは初めて彼女が出来た時よりも、大学に合格した時よりも、結婚した時よりも全然比べ物にならないくらい上質な幸せです。
今でも写真を見て、あの時のことを思い出すだけで、幸せな気分になれちゃうくらいです。
こうして無事第一子が生まれました。この先しばらくは幸せな日々が続きますが、私たち夫婦の本当の試練はここからでした。
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赤ちゃんと3人の生活、また無理を重ねてしまう
第一子が出来て楽しい日々を送っていたのですが、やはりお金に対する不安があったので、妻は出産後半年で仕事にフルタイムで復帰しました。
子供はゼロ歳児保育に預けて、何とか二人でやりくりしようと思ったのです。
今思えば、そんなに金銭的に困っていたわけではなく、ただ私たちの金銭感覚が贅沢な方向に傾いていたので、お金に対する不安も大きかったのでしょう。
生後6か月から保育園に行かせたせいか、赤ちゃんは夜泣きするようになり、夜中に何度も起こされて睡眠不足になる日が続きました。
しかし子供にとってもストレスだったのでしょう。一番母親が必要な時期に自分たちの都合で保育園に入れられたのですから、今思えば反省です。
特別な事情があれば致し方ないのですが、私たちの場合は生後半年で復帰することは絶対的に必要な事ではなかったです。
子供の夜泣きで私たち共働きの夫婦は、寝不足でどんどん体力が落ちていき、また子供もよく熱が出ました。
その年の冬に息子はインフルエンザにもかかり、40度の発熱。医師から髄膜炎の危険があるとのことで入院しました。約1週間入院し妻は子供と付きっ切り、子供の病室では妻はゆっくり眠れません。
私はその時期ちょうど仕事で出張が重なり、十分に妻と子供を援助することが出来ませんでした。
子供が回復し退院したら今度は妻が体調を崩し、重度の皮膚炎と帯状疱疹に苦しみました。
子供はとても可愛かったので、そんな疲れも子供の顔を見れば吹っ飛びました。って思ていたのですが、体は正直です。蓄積疲労は知らず知らずのうちに私たち夫婦の体を蝕んでいました。
子供が1歳の誕生日を迎えた時、私はすでに少しうつ状態だったのを覚えています。そのうつ状態は1週間程度で回復しました。寝つきも悪く、明け方4時に寝付いて6時に目が覚めて、朝から極度の疲労感を感じていたのを覚えています。
今思えば私は自律神経失調症だったのでしょう。精神症状が表面化していなかっただけで、いつうつ病になってもおかしくなかった状態です。
そんな自分にムチ打って朝からマラソンを10キロ走って、出勤前は缶コーヒーで脳をごまかしていました。
でも当時はそれで何とか仕事を乗り切っていたのです。
再び妊娠。なんと自然妊娠!
そんな中、私たち夫婦は子供も1歳になったことだし「そろそろ2人目を」と、そんな話をしていました。
とりあえず最初は自然妊娠をとのことで、夫婦生活を定期的に行っていました。この時はあまり排卵日とか意識せずに気楽に自然に任せて夜の営みをしていました。
そうした生活を約3か月ほど続けた結果、意外な結果になりました。
第一子誕生から約1年半後に、なんと今度は自然妊娠したのです。
夫婦二人で驚き、喜びに沸きました。
というのも第一子の妊活中にフーナーテストの結果が最悪だったし、精子の運動率や数も少ないと判定されたから、自然妊娠する自信は全くなかったです。
7個とってある凍結胚を戻して、また体外受精で妊娠することを覚悟をしていました。
自然妊娠できるなんて、実際のところ夢にも思っていなかったので、それはもう夫婦で浮かれましたね。
しかもお腹の中の胎児は、とても元気で妊娠5週にして早くもはっきりと心拍が確認されたのです。
このとき、この赤ちゃんは絶対に流産しないだろうという確信を持てたので、私は安定期に入る前の妊娠3か月前に職場のみんなに報告し、友達にも報告しました。
みんな優しく祝ってくれて、中にはお祝いに焼き肉をおごってくれた友人もいました。
夫婦で「次は女の子かな?」なんて淡い期待もしていたし、「名前は何にしよう」とか「車をもっと大きいやつにしよう」とか、会話の内容もキラキラしていました。
でも実はこの赤ちゃんは、結果的に産むことが出来なかったのです。
>>流産や死産はママが悪いんじゃない。流産で苦しんでいる人へ。
異変
妻に異変が出始めたのは、妊娠8週目あたりでした。
このあたりから妻は左の股関節の付け根に痛みを感じ始めました。最初は弱い痛みで、特に問題ないだろうとお互いあまりに気にしませんでした。
まあ、妊娠しているし体に多少の異変があるのは悪阻の一種だと思ったし、インターネットで検索しても、妊娠に伴って骨盤の骨格の関係で股関節が痛くなるケースもあると書いてありました。
ただこの痛みが日に日に増していって、ついに朝起きた時に家の階段を一人で降りれなくなったのです。
「痛くて歩けない。どうしよう」と泣きながら私に言ってきました。私もなんだか疲れており、その時余裕が無くて「早く病院に行けばいいじゃないか!」と冷たく返事をしてしまいました。
思い返せば、その時の妊娠が発覚してから妻は心では喜んでいたものの、体の状態はと言えば絶不調でした。
毎日体が重くて、仕事も休んでそれでも一日中寝ていることが多かったです。
その時の家事、育児はほぼ夫の私が一人で行っており、仕事と家事に追われていた私もかなり疲れを溜めていたのです。
だから、その時の妻に「少々のつわりで音を上げるな」という気持ちがあったのでしょう。だからついついきつい口調にで冷たい対応をしてしまったのです。
一人で歩くこともままならないということで、かかりつけの産婦人科の先生に電話相談、そしてとりあえず受診に来てほしいとのこと、そんな流れで急きょかかりつけの産婦人科を受診しました。そしたら、結局原因はわからず、翌日に同じ病院の整形外科を受診するように勧められました(まあ産婦人科で股関節の痛みの診断はできないですよね、、なぜ「来てくれ」と言われたのか、、)。
妊娠中に深部静脈血栓症の診断を受ける
結局痛みが進行していく中、整形外科を受診、整形の先生も原因がわからないということで、エコー(超音波)で画像診断。
すると先生は気づかなかった見たいですか、エコー検査をしている技師さんがたまたま血管に影があるのを発見しました。
静脈に血の塊が詰まっている状態、つまり血栓があったのです。その血栓は股関節の周りだけでなく左の脚全体にありました。
病名は「深部静脈血栓症」という病気、一般的にはエコノミー症候群と言われるものです。
飛行機で長距離フライトしたり、災害などの影響で家に帰れない人が長期間車内で寝泊まりしたりするとなる病気です。
うちの妻の場合、妊娠したことが血栓の原因でした。妊娠すると流産させないために体が血液の粘性を高めるように働いて、血栓を起こすリスクが高まります。
ふつうは血栓を起こすほど、血はドロドロにならないのですが、妊婦さんの10万人に1人の割合でこの深部静脈血栓症になってしまう人がいるそうです。不幸にもうちの妻は、この10万分の1になってしまいました。
この病気はとても恐ろしい病気なのです。
足にできた血栓は、足の筋肉を動かした拍子に血管から剥がれて、血管を通じて肺に飛ぶことがあります。そうなったら肺梗塞を起こして最悪の場合死に至ります。
妻はその日の受診終了後、病院の駐車場まで歩行することも危険と判断されたため、病院スタッフに車いすで駐車場まで押してもらいました。
その後、その病院ではハイリスク過ぎて今後の妊婦検診は対応できないとのこと、ハイリスクを受け入れている周産期母子医療センター(NICU)のある病院を紹介してもらいました。
この時の私たちは、まだ状況を把握しきれておらず、赤ちゃんをおろすことなんて現実的に考えていなかったです。
おわりに
今日はここまでですが、この時に私たちのことに来てくれた赤ちゃんも間違いなく、私たちを選んでやってきてくれたのです。
それは必ずしも生まれることが、目的でやってきたとは限らないのです。
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【続きはこちら】
→壮絶!不妊治療体験記③ ~医師からの辛い宣告、堕胎、うつ病からの再出発~